資料編

世界の有名ホテルチェーンストーリー

Chapter5

アマンリゾーツ

Amanjiwo (Yogyakarta, Indonesia)

アマンマジック!

1987年、インドネシア人のエイドリアン・ゼッカー氏がアマンリゾーツを開業。翌年、タイのプーケット島に第1号ホテル「アマンプリ」をオープンすると、瞬く間に世界中のセレブリティたちを魅了してしまいました。ゼッカーはその後も次々に個性的なリゾートを誕生させますが、どれも決して便利な場所にあるわけでもなく、料金も相当に高額なのに、一度泊まった人はあまりの素晴らしさに魅了され、チェックアウトの際に次の予約を入れてしまうという「アマンマジック」。その秘密はどこにあるのでしょう?

魔法のはじまりはアマンプリ

当時すでにホテル業界の第一線でバリバリ働いていたゼッカーは、古い友人の建築家エド・タートル氏とともに、冬の避寒リゾートとしてプーケットに別荘を作ろうと考えました。ただし商業ベースのものを作る意図は全くなく、あくまでもプライベートで、自分たちの趣味に合った、全てから解き放たれた癒しの非現実のリゾートを、それが当初の目的だったのです。

ゼッカーはその後のアマンもすべて、自分の別荘を造るような感覚で、魅力的な土地を探しながら、ゆっくりと増やしていったのです。自分の理想のリゾートをひとつひとつ具現化し、そのポリシーが変わることは決してありません。さらに、どのアマンもヴィラタイプで、30~50棟とこぢんまりとしています。アマンというのはまさに、「ゼッカーの別荘」のようなリゾートなのです。アマンのテーマはあくまでも「大人のための現実を離れた癒しのリゾート」です。

エイドリアン・ゼッカーとホテルビジネス

エイドリアン・ゼッカー氏の曾祖父は、ボヘミア(現チェコ)で生まれ、1829年にオランダ領東インド(Dutch East Indies、現在のインドネシア)に移住。その後地元の女性と結婚、良質なプランテーションを数多く所有し、地主として裕福な生活を送っていました。そんな裕福な家庭環境のもと、1932年、インドネシア人の母とオランダ人の父の間に生まれたのがゼッカーです。

ところが1956年、ゼッカーが23才の時、インドネシアではスカルノ大統領が個人所有の土地をすべて国有化にしてしまいました。これを機にゼッカーはシンガポールへ逃れ、ジャーナリストとしてマレーシアやシンガポールで仕事をするようになります。その後出版者としてニューヨークへ渡り、29歳の時、アジアの芸術業界とビジネストラベルマーケット関連の雑誌を発行しました。これらの雑誌は両方とも、現在もまだ存在しています。

1970年、もともとホテル業界に深い関心があったゼッカーのもとに、リージェント香港から創設メンバーとして手を貸して欲しいとの依頼がきます。これをきっかけに、ゼッカーはホテル業界に足を踏み入れることになりました。リージェント香港でゼッカーは財務担当兼副社長に就任、ホテルの買収も手がけました。バンコクのリージェントはもともとペニンシュラとして建てられたものだったのですが、これを一夜にしてひっくり返し看板をリージェントに。世界のホテル界をあっといわせたこともありました。

1972年には、ロバート・バーンズ氏(現ロバートH. バーンズ投資会社の会長)とジョージ・ラファエル(現マンダリンオリエンタルグループ副会長)の3人で、ホテルビジネスに着手。アジアで最初の5スターホテルチェーンである「リージェントインターナショール」を設立したのです。しかしゼッカーには、50代前半までに、自らの手で5スターホテルをオープンしたいという夢がありました。ただし彼が描いていたのは、リージェントのような大きなホテルチェーンではなく、全体に目が行き届きパーソナルサービスが提供できる、こぢんまりとしたものでした。

常識やぶりのホテル誕生へ

ある時ゼッカーはプーケットを旅行中に、海のそばのココナッツ農場を散歩していました。彼はそのあまりの美しさに感動し、この地にバケーションホーム(別荘)を建設することを決意します。それからというもの、彼は全ての収入をプーケットの別荘建設にあて、着々と工事を進めていきました。ここで1つ難問が持ち上がります。自分がその別荘を離れている間、いったい誰が管理するのでしょうか? その問題を解決させたのが、ホテルチェーンの開業でした。

1987年、ゼッカーはシンガポールに本社を構え、アマンリゾーツを開業。プーケットの別荘は、その第1号として「アマンプリ」というプライベートヴィラへと姿を変えることになりました。そして敷地内に約70棟近くのヴィラを建て、リゾートホテルとして運営する準備をはじめていったのです。

ゼッカーは、このアマンプリで今までのホテル業界の常識に反することを次々と実行しました。例えば、交通の便の悪い辺境のロケーション、無駄の多い一見採算を度外視したかのような贅沢なスペース、通常の10倍以上という高い宿泊料金などなど。特に料金に関しては、当時プーケットで最も高級といわれた「プーケットヨットクラブ」が1泊75ドルだったのに対し、アマンプリはなんと1泊250ドルという信じられない金額を設定。常識破りのこの料金は、世間の人々を非常に驚かせました。そんな辺鄙な場所で、しかもこれほど高い料金が受け入れられるなどとは、誰一人信じませんでした。ゼッカーが最も親密であった銀行ですら、建築に必要としていた250万ドルを彼に貸すことを拒絶したのです。

結局ゼッカーは財力のある旧友と力を合わせ、アマンプリを自分たちの資金だけで建設することになります。40室のホテルにかけた総費用はおよそ500万ドル、1室あたり12.5万ドルです。当時にしては、考えられないほど高額なものでした。なお、その後のアマンリゾーツは、1室あたり30万ドルの費用をかけて建設しています。

アマンリゾーツの躍進

1988年1月1日、ゼッカー55才の時、ついにアマンリゾーツ第1号の「アマンプリ」がオープンしました。ゼッカーはアマンリゾーツの会長の座に就きます。オープンして3カ月ほどたった時のこと、俳優ショーン・ペンやマイケル・J・フォックスが、ベトナムでの映画の撮影の合間にアマンプリに滞在し、すっかりその魅力にとりつかれます。これを機にアマンプリは、広告も出さずして瞬く間に評判と名声を広めたのでした。その後、アメリカのニュースレター「アンドリュー・ハーパー」のハイダウェイレポートでリゾート部門としての初受賞を皮切りに、いよいよアマンの躍進がはじまったのでした。

アマンリゾーツは、順調にホテルを増やしていきます。1988年にタヒチ・ボラボラ島に「ホテル ボラボラ」、89年にはバリ島に「アマンダリ」をオープン。1992年には同じくバリ島のマンギスに「アマンキラ」、ヌサドゥアに「アマヌサ」、続いてフランス・トロワヴァレーに「ル・メレザン」、93年にインドネシア・モヨ島に「アマンワナ」、同年フィリピン・パリマカン島に「アマンプロ」と、アマンプリからわずか5年の間にインドネシアを中心に7軒ものホテルをオープンさせたのです。しかし、その一方でビジネスは徐々に混乱をきたしていくことになります。最初のきっかけは、1996年でした。

混乱そして破局へ

それまでアマンリゾーツの株の63%は、「Argent」という持株会社が保有しており、その持株会社は、10%をゼッカーが、残りの90%を彼の友人のクルメント・ヴァトゥリが保有していました。ある時ゼッカーはヴァトゥリにさらなる資金協力を依頼、ヴァトゥリは依頼に応じてフランスの銀行から巨額の資金を借ります。しかし、1996年、その銀行が財政難に陥り、ヴァトゥリにそのローンの返済を求めてきたのです。ヴァトゥリは、アメリカの不動産投資信託会社コロニーキャピタルに資金提供を依頼、1億2000万ドルの支払いと引き換えに、アマンの全株式の20%を譲渡するという契約を結んでしまいます。これによりヴァトゥリの持ち株は、Argentの90%(即ち全株式の56%)から、全株式の36%にまで低下してしまいました。それでも1998年にアジアの金融危機がアマンリゾーツを直撃するまでは、コロニーキャピタルがゼッカーの経営に口出しをすることはありませんでした。

1997年10月、アマンリゾーツはインドネシアのジャワ島に「アマンジオ」という新リゾートをオープンします。しかし時を同じくしてインドネシア経済が崩壊、アマンジオはその影響をまともに受け、1997年と98年の2年間、収益が目標を大きく下回ってしまいます。これが引きがねとなって、ついに1998年10月、その時は訪れました。コロニーキャピタルがヴァトゥリに、1億2000万ドルの投資とその利子約4000万ドルの返済を急に要求してきたのです。コロニーキャピタルとしては、アマンジオの業績不振などを見てアマンへの投資価値はないと判断したのでしょう。無駄にお金を眠らせておくわけにはいかぬという踏み切った行動でした。

突然の大金の返済要求、ヴァトゥリはすぐに用意できるはずもありません。このままでは株も権利もすべて失うと判断したヴァトゥリは、フォーシーズンズや他ホテルグループにコロニーキャピタルの買収を働きかけたりします。しかしこれもすべて失敗に終わり、とうとうヴァトゥリは、残りの株式すべてを手放すことになってしまいました。

ゼッカー、アマンを去る

1998年10月、ついにコロニーキャピタルは、ヴァトゥリが所有していたアマンの株を獲得。これによりアマンリゾーツの7つの議席のうちの3つを支配し、拒否権を持つことになります。それは他の株主とは異なる強大な権力でした。もちろんゼッカーはまだ株の一部を保有していましたが、それはわずかなものでしかなく、コロニーキャピタルに太刀打ちできるはずはありません。コロニーキャピタルはアマンリゾーツの経営を支配し、収益の回復を計るため、自らが所有しているホテルに「アマン」のブランド名を付けて積極展開を図ろうとしました。

しかしその考えは、ゼッカーを激怒させました。「既存のホテルをアマンのレベルまで引き上げるなんて、そう簡単にできるはずがない!逆にアマンを、それらのホテルのレベルまでダウンさせてしまう。アマンに何度も滞在してくれた人々が離れて行ってしまう!」。また、コロニーキャピタルの経営方針は、あらゆる点においてゼッカーの哲学および経営理念に著しく反するものでした。例えばゼッカーは、シーツの色から家具の素材にいたるまであらゆる細部にこだわることで、オリジナリティあふれる温かみのある「アマン」ブランドを形成してきました。しかしコロニーキャピタルはそうではありませんでした。その違いを、ゼッカーはこんな言葉で例えています。「私はただ単にアマンを経営している人間ではありません。私がアマンを経営することの重要性というのは、工場で流れ作業によって作られた時計か、職人の手によって丹精込めて造られた時計かの差なのです。」

ゼッカーの最大の恐れは、親密な空間の形成が、単なる別の営利事業に変わってしまうかもしれないということでした。そして、その恐れは現実のものとなります。コロニーキャピタルはアマンの株の大多数を所有し、強大な権力をも所持しています。一方のゼッカーは、株の一部分を所有するだけでもはや何の権力もありません。ついにゼッカーはアマンリゾーツの会長を辞職しました。この衝撃的なニュースがあまり知られていなかったのは、ゼッカーもスタッフも社内の混乱という悪いニュースによってアマンのイメージを落とさないために、彼の辞職をずっと隠していたからでした。

新たなホテル設立への準備

アマンを退いたゼッカーは、その後約1年の間、インド、ニューヨーク、タイ、ラテンアメリカなどの友人を訪問して過ごしました。やがて彼は、アマンに匹敵する「大人のデラックスリゾート」を再びつくろうと決心し、それにふさわしい場所を探して世界中を旅して歩きます。ゼッカーが新しいホテルをつくるのは、そう難しくはありませんでした。なぜなら、彼にはそれまでに培った経験と人脈があるからです。実際、アマンのスタッフのトップ20人のうち10人は、ゼッカーの後を追って退職しています。

また資金面でも、GHM(General Hotel Management)というホテル管理会社からの収入や、3億ドルの財産を持つアジアの信託会社のサポートもあります。さらに、75億ドルの財産を所有するシュロダーキャピタルパートナーズ(SCP)の会長でもある、友人のアニル・タダニが全面的に協力してくれました。こうしてゼッカーは、「マーハリゾーツ(Maha Resorts)」という新しいホテルチェーン設立の準備を開始したのでした。

一方コロニーキャピタルは、セッカーがアマンを去ることについて全く心配していないと公言していました。「ゲストが期待するものを提供する限り、私たちは成功するだろう」と、ゼッカーなしのこれからのアマンに絶対的な自信を持っていたのです。

しかし周囲の目は冷ややかで、アマンをよく知る人は口々にこう言いました。「コロニーキャピタルにできるのは、アマンの名を傷つけ壊すことだけだ。ゼッカー抜きで新しいアマンをオープンできるかだって? それは疑問だな。なにせ彼らは、ゼッカーのようなビジョンは持っていないのだから」。そう、ゼッカーはすでにアマンを去っており、周囲がどんなに望んでもゼッカーの意志をアマンに反映させることはもはやできません。それをする唯一の方法は、コロニーキャピタルの提示する額で株を買い戻すことだけなのです。

ゼッカー、アマンに戻る

2000年10月、ついに周りが動きました。ゼッカーの友人でもある大資産家シュローダーキャピタルパートナーズ会長タダニが、かつてヴァトゥリが所有していた株をすべて買い戻したのです。アマンを去ってからちょうど2年後、ついにゼッカーはアマンリゾーツにカムバックすることになりました。復帰後まずゼッカーが行ったことは、一軒一軒のすべてのホテルを訪れ、総支配人たちと今後何をすべきなのかを話し合うことでした。この2年の間に熟練スタッフの多くがアマンを去っており、また新たに雇われたスタッフは、アマンの文化もゼッカーの哲学も知りません。かつてのアマンを再現するのは容易なことではありませんでした。しかしゼッカーは、GM一人ひとりと話し合うことで、少しずつ以前のアマンを取り戻していったのです。

同時に彼は、アマンを離れている間に準備を進めていた新たなホテルチェーン「マーハリゾーツ」の開業にもこぎつけます。本社を香港に置き、自らがCEOとなりました。2001年10月オープンの第1号は、メキシコのグアダラハラから車で約2時間の丘の上に建てた「マハクア」です。現在アマンリゾーツは、かつてのようにゼッカーを会長とし、彼の哲学が浸透したスタッフとともに順調に歩んでいます。それまでの波乱を乗り越えたからこそ、以前にも増して魅力的なホテルチェーンとなっているのでしょう。

アマンと、他の有名ラグジュアリーホテルチェーン、例えば「リッツ カールトン」や「フォーシーズンズ」との違いは、日本国内の「ホテル」と「名旅館」の違いに例えることができます。言葉で表わすのが非常に難しいのですが、旅館の方がアットホームな感じがし、ぬくもりを肌で感じます。アマンは日本の名旅館と共通する点が多くあるようですね。

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